智慧の断片

リアリティをかたちづくる世界観

コンステレーション

人は観るものしか見えないし、観るのはすでに心の中にあるものばかりである

– アルフォンス・ベルティヨン

ぼくたち、ひとりひとりのリアリティは客観的な事実に基づいているのだろうか?

他の人たちやグループの葛藤や紛争の最中に入って、そのもつれを紐解く仕事をしていると、客観的な事実というものには、本当は意味などないのだと思うことさえあります。

実際のところ、ぼくたちのリアリティは、事実がどうこうというよりも、自分の内側に脈々と流れる物語の筋書きに大きく影響されて構成されているようです。

ぼくたちの内側には、他の人には見えないながら、実はその本人にとっては、世界の見え方や振る舞いを決定付けてしまうような物語が流れています。

その物語のなかには、その人特有の個人的なものもあれば、同じ時代を生きる人たちに共通したものもあります。

ぼくたちが生きる現代の世界を動かしているのは、どのような物語なのだろうか?

パラダイム・シフトというものが謳われ出してから、もう随分と長い年月が流れていますし、ティール組織などの新しいパラダイムが具現化されたような動きも世界中のさまざまな分野と場所で現実のものとして見られるようになってきました。

とはいえ、科学革命以後のこの約300年間、この世界に現在まで依然として支配的な影響力を及ぼしている物語は、ベーコンやデカルト、ガリレイやケプラーやニュートンたちがもたらした「機械論的」世界観であるということを否定することはできないでしょう。

この「機械論的」世界観では、あらゆる物事は把握することが可能であり、コントロールできるという前提が世界を捉えるときの土台になります。この前提が影響を及ぼす範囲は物理的な現象に留まりません。ぼくたち自身や他の人たちの心や身体、人間の集まりである組織やコミュニティさえも「機械」であるかのように捉えられる傾向があります。

こうして、世界に存在するあらゆるシステムが、次のように認識されるのです。

システムには、明確に定義された部位があり、それぞれの部位には明確に定義された役割がある。

そして、この部位の集合体であるシステム全体は、各機能が生み出す因果関係の連鎖によって予測可能な結果をもたらす。

ですから、システムを要素に分解して、ひとつひとつの要素の動きや性質について把握できれば、すべてが解明できるという意識を持つに至ります。

そして「機械論的」世界観で駆動するシステムは、そのシステムが持つ単一の価値観に基づいて突き進むので、特定の目的を達成するために、合理化・効率化されていく非常に強力な推進力を持ったシステムです。

「機械論的」システムは、各部位の作用が原因となって生み出される結果の連鎖によって組み上げられた装置ですから、それぞれの部位は自分の持ち場に要求された機能を最高のパフォーマンスで遂行できればできるほど、システム全体に貢献できることになります。

「機械論的」な世界観はどこに影を落としているか?

一方で、要求された機能を満たせないとき、あるいは、目指している価値観とは異なるものを生み出すとき、その部位はボトルネックとみなされたり、故障とみなされたり、問題とみなされたりして、システムにとっての「悪い」箇所であるとされます。このシステムは「機械」であるという前提があるので、当然のごとく「悪い」箇所は、機能を損なう「原因」とみなされて、修理されたり、交換されたり、排除されたりします。

先ほど、ぼくたちは人間やコミュニティも「機械論的」システムだとみなしがちだと書きました。これらの人間を含むシステムを「機械」とみなした結果、現実に何が起こっているかを少し覗いてみましょう。

企業で業績が出せない人は、改善を求められ、改善が見られないと最終的には解雇されるということがあります。

業績を出しても、無理をして心身の健やかさが損なわれれば、業務から離脱させられ、回復を求められます。

そして、所定の期間内に回復すれば、組織に戻ることになりますが、そうでなければ、結果として組織から去ることを余儀なくされます。

一般社会においては、法律などの規範に反する行動をした人たちは拘留され、裁判などで裁かれます。

そして、刑務所などに収監され、行動や生活態度や考え方・感じ方を改善することを求められながら、一時的に社会から排除されます。

あるいは、終身刑や極刑に処されたりすることで、完全に一般社会の外側に押し出されます。

刑期を終えたらば、社会復帰できるかというとそうでもありません。「機械」の比喩で言えば、また「故障」する可能性を孕んだ部品を懸念とともに戻すような状況になります。

社会の目は「犯罪者(予備軍)」「反社会存在(予備軍)」との刻印を新たに刻み込むことも少なくなく、社会復帰することからはほど遠い状態のまま、周縁化されて社会に戻されるのです。

SOGI/LGBTQiA+や在日外国人、アイヌ、部落出身者などのマイノリティたちの扱いも社会の主流派とは価値観がちがうという理由からシステムの外側へ外側へと押しやられます。

意識的にせよ、無意識的にせよ「機械」としてのシステムは、単一の価値観に基づくため、価値観が異なるものを、その中心から遠い周縁に追いやっていく性質を持っています。

ひとりの人間においても同様です。

例えば、西洋医学において、胃がんになれば、がん細胞に侵食された部位を切除するため、胃の一部または全部が摘出されます。

その他の病気でも、薬などで不具合を出している箇所を治療しようとして、「悪い」部分だけをなんとかしようとします。

メンタルに不調をきたした場合には、まず原因となるストレスや過去の体験が突き止められ、そして、その原因であるストレスや記憶を操作しようとしたり、意味付けなどを変えようとしたりすることによって「治療」が行われます。

カップルセラピーでも、家族療法でも、関係性やコミュニケーションの不全という原因が突き止められ、その原因をなんとかしようとします。(この辺りから、違う世界観が混じりはじめるので、実のところ曖昧になってきたりします。)

より一般的なところでは、感情的であること、殊に怒りや悲しみを表現することは、合理的でないもの、秩序を乱すものとして排除されます。

「機械論的」世界観では、効率的に動いていることが当たり前で、壊れたものが何であれ、発見され修繕されれば、「機械」は機能を取り戻し、本来の運動をはじめるというように考えがちです。

「生命」の声が溢れ出している…

このような「原因」を叩く方法で効果を上げているという実態も身の回りで多々あり見聞きしてもいることから、ぼくたちは、このような例の数々を日常のなかで当たり前のように受け入れています。

しかし、その一方で、どこかしら違和感を持ったり、不便さや怖さを感じたりすることがあったり、これでいいのだろうかと疑問を抱く瞬間があったりすることもあるでしょう。

局所的に「治療」や「修理」をしたとしても、大きなところではなにも変わっていないじゃないか。

主流派とは異なる価値観で生きることは許されないのだろうか?ちがった生き方をしてみたら、どうなるのだろう?

自分のなかで繰り返し聞こえるこの叫びのような声は、こんなにも強烈に響いているのに間違っているのだろうか?

ぼくたちは、もっと大きなつながりのなかにいるのではなかろうか?

新しいパラダイムに対する、ぼくたちの期待や希望は、これらの感覚の奥底から現れてきたのではないかと思います。

ある側面において、ぼくたちのリアリティは、決まりきった「機械」の装置のなかでは窮屈すぎて、生命を削られる想いで生き永らえ、世の中に飛び出すことを夢見てきたのです。

「機械論」と「生命論」

新しいパラダイムには、その質においても、影響力においても、歴史についても、さまざまな流れがありますが、ここでは脈々と受け継がれてきた大きな流れのひとつである「生命論的」世界観に注目します。

「機械論的」世界観と「生命論的」世界観が映し出すシステムの主な特徴を挙げてみましょう。

「機械論的」システムの特徴
  • システムは、一定の運動を繰り返し、同じ結果を再生する
  • 単一の価値観に基づいた二元論によって物事が評価・判断される
  • システム全体の機能は、構成要素の単純な機能に分解することで把握できる
  • すべての現象を因果関係で説明することができ、その仕組みを解明することができる
  • 仕組みが解明できれば、結果を再現したり、コントロールしたり改善したりできる
「生命論的」システムの特徴
  • システムの構成要素はすべてが相互につながりあっており、常に変化している
  • システムは、自身の認識や知覚が変化すると、その特性が変化する
  • すべての答えが「外部のどこかに」存在するわけではない
  • システムは、自分自身で生み出した解決策だけを受け入れる
  • システムは、その瞬間、その場所で、自分にとって意味のあるものだけに注意を払う
  • あらゆるものに価値を見出し、多様性を求め、新しい可能性にひらいた新しい関係を求める
  • 最も適応できたものだけが生き残るのではなく、適応するあらゆるものが可能なかぎりの多様性をもって生き残るのである
  • システム全体の機能は、構成要素が同時に動いているときにしかわからない
  • システムの創造的な表現の幅は、構成要素が多様であればあるほど爆発的に増加する
  • いかなるシステムもコントロールすることはできない
  • システムは、完璧な解決策を見つけようとするのではなく、この場、この瞬間に実行できる解決策を見つけようとする
  • システム内のパターンはフラクタルな構造を持っており、同じパターンがあらゆるレベルで繰り返し現れる
世界観の対比

こうして比較してみると、ぼくたちは、ついどちらかが優れていて、どちらかが劣っていると考えてしまいがちですが、どちらにも価値があり、ぼくたちは両方のシステムを必要としています。

ぼくたちが安心して生きていくためには予測可能で再現可能な秩序が必要ですし、なにかを行動に移すとき、一時的にでも形がないことには表現できません。そして、予想だにしなかった方向に変化することもある、ぼくたち自身を含む世界のなかで、ぼくたちが進化・成長し、未来を創造していくためには、秩序からはみ出した領域から出現しようとしている未来の兆しを見出して行動いくことも必要です。

これらの世界観はただ、その価値を発揮する状況や場面がちがうだけなのだということを、明確に強調しておきたいと思います。

これを書いた直後に、河合隼雄の最終講義の動画が飛び込んできました。
内容のシンクロに驚きつつ、書ききれなかったことも含まれているので、参考に貼っておきます。